記ろぐ10 〜あったら良いなと思っているサービスはだいたいある〜
一体どれだけの数の人間がこれまでこの世界で生きてきたのか。
最近、「あー、こんなサービスあったらいいなー」とか、「あー、こういうものあったら便利だよなー」とか思った直後に調べると、「あ、あるじゃん!」となることが続いて世の中便利だなーと思ったので、ゆるく共有します。
①お薬手帳電子版
最近カバンの中身を整理していると、くしゃくしゃになったお薬手帳が出てきた。
お薬手帳って、めちゃくちゃ不便だなーと、見ただけで思ってしまった。
なんてたって、過去の薬の情報を集めておく便利な手帳だけど、絶対に必要な時にない。
病気の時なんて、大抵余裕はない。お薬手帳なんて二の次の次の次の次の次くらいですかね。
今年の夏前ごろに続けて風邪を引いたので、その時は薬手帳をもらったままカバンに入れていたために薬局行った時にMyお薬手帳を持っているという珍しい状況になった。
お薬手帳の隠された効能は、薬の値段が若干安くなるということ。
お薬手帳を忘れてしまう人が多いので、この事実を知っている人はほとんどいないんじゃなかろうか。
「こんなお薬手帳こそ、アプリになってたらいいなー、というかなっているべきだろ」と思って、appstoreで検索すると、次から次から次から次に出てくる出てくる。病気の時に二の次の次の次の次の次にされていたからか、奥の方にたくさん眠っていたのだろう。
中には、厚生労働省推奨のアプリもある。
いい感じのまとめサイトもあり。
ただ、すべての薬局には対応していないみたいで、アプリによって対応店数は違うということで、まだまだ使いにくそうだ。
それでも、「あるじゃん!」となりました。
②Tabキーで、戻る方法
Tabキー、めちゃくちゃ便利ですよね?
複数の入力項目があるときに、マウスでいちいち枠をクリックする必要もなく、次のタブに移れるってもう最初に知った時は最高かよとなった。
次のタブに文字を打ちたい時はTabキーを押す、ということが常識になっていたものの、前のタブに戻りたい時は何の疑いもなくマウスを動かして前のタブをクリックしていた。
何の疑問もなく、だ。
最近ふと、「Tabキーの戻るバージョンの機能ってあったら便利だよなー」と思うことがあって、「あったらいいなー」と思いググった。
ググりながら、「いや、ないはずがない」という思いが湧いてきて、やっぱりあった。
「Shift+Tab」で一個前のタブに戻れる。
もう、最高かよ。
もっと早く知りたかったよ。
、
、
、
ということで、二つの例を紹介したように、きっと便利なものやことは僕たちの目の届かないところにあふれていて、僕たちが認識しているのはほんの一部なんだろう。
一体どれだけの数の人間がこれまでこの世界で生きてきたのか。
世の中ってとてつもない数の人間の蓄積のうえにあるんだなーと改めて思いました。
2018年に生きていることもある意味奇跡ではないでしょうか。
それでは、3連休を楽しみましょう。
記ろぐ9 〜道徳、コンプラ、法律を巡る事件〜
非常に21世紀的だなと思うのだ。
本日、出張で新幹線に乗って移動中に起こった出来事をぜひとも共有したい。
この出来事は、何が正解かを考えさせられるとても奥深い題材だと思う。
今思い返しても、あまり整理がつかない。
今日乗った新幹線は、ほとんど席が埋まっている状態だった。
僕の席は、3席並びの通路側だった。
東京駅で乗った時点では、隣の2席は空いていた。窓側が空いているならそっちのほうが良かった、なんて思ったもののおとなしく仕事の資料を読み漁る。
もちろんその2席が空いているのには訳があって、次の次の駅で親子3人がやってきた。
子供はまだ小さい(3−4歳だろうか)ので、母親に抱っこされていた。
子供はまだ幼いので、やはり声が大きく正直うるさかった。
それでも、別に子供がうるさいのは普通だから、むかむかすることもなく資料を読み続けていた。
僕は昔から日本語を耳で聞きながら、それとは違う文章を読むことはできない人間である。耳から入ってくる情報に脳が反応してしまうのだ。勉強中は日本語の歌詞の音楽を聞くこともできない(英語なら何言ってるかわからないので大丈夫)。
ということで、親子の会話に脳が取られてしまって資料の読み込みに集中できなかった。
なので、イヤホンをして久石譲の音楽を流して資料を読むことにした。
その後無事に資料を読み終わったので、目的地に着くまで好きなことをすることにした。
この暇な時間を想定して持ってきていた新しいノートをカバンから取り出す。
ロイトトゥルムのノートだ。
ロイヒトトゥルム ノート A5 方眼 ブラック 315928
社会人になってから、学生時代に使っていたノートを完全に仕事用としてしまっていたため、私用のノートをしばらく持っていなかった。
そんな時に、”バレットジャーナル”なるものを知り、ちょっといいノートをつい最近買ったのだった。
バレットジャーナルを知りたい方はこちら。
そして、新幹線の中で、ロイトトゥルムのノートを初めて開けることになった。
目的地到着まで、1時間ほどある。まあ、暇だ。
記念すべきバレットジャーナルの最初のページに、”はじめに”を書くことにした。この瞬間の空気や思いをここに書いておこうと思ったのだ。後で読み返した時も面白いだろうと。
ページの左上今日の日付を書き、文章を書き始める。
書く内容は、なぜこのノートを買ったか、という文章。
正直意味わからないよね、こんなことをノートに書く人間の気持ち。
ただ、高級ノートにテンションが上がっていたし、文章を手書きで書くということを久々にしてみたいと思ったし、何より暇だった。
このブログで書いているように、手が滑るがままに文字を書き連ねた。
そうすると、つい余計なことまで書き始める。
「本日は◯◯への出張日。新幹線の車内である。隣には親子3人が座っている。さて、はじめに、このノート使う経緯を記そうと思う。 ……」
そんな書き出しで、たらたらと文章を書いた。
完全なる駄文であるが、やはり文章を書くことは気持ちの良いことである。
その頃、隣の子供は、目的地になかなかつかないことにイライラしてきており、声も大きくなっていた。
僕の隣には、お父さん、お母さんの順で座っており、子供は二人の膝の上で寝っ転がっていた。
僕の方に向いた子供の足がちょっと当たったりもしたが、特に気にせずに筆を進める。
書き始めて5分くらい経った時だった。強烈な視線を感じた。
横目で隣を見ると、暴れる子供を手で押さえながら、お父さんの目線は僕のノートに向いていた。
なんかすごい嫌な感じだ。
人がノートに書いている文章を見てくるとは…。覗かないでほしい。
僕が横を見たからか、お父さんは視線を外した。
書いている文章も、正直意味わからない(ノートにはじめにを書く奴は稀だ)もので、文章にまとまりもなくとっちらかっていたから、見られたくなかった。
スマホをすでに書いた部分の上に置いて隠すことで、とりあえずの対処として、また文章の続きを書き始めた。
一通り、文章を書き、締めのパートに入っていた。
本当にとっちらかった文章なので、将来これを読む自分に対して言い訳を書こうと思い、こんな文章で締めた。
「さて、長時間移動に耐えきれなくなって、暴れている子供を横目に書いた文章であることを忘れないでほしい。良い文章が書けるかは、環境要因が大きいことを信じて筆を置く。」
まるで、文豪気取りな感じだが、うまく締まった。
すると、そのタイミングで隣のお父さんが立ち上がる。
子供がトイレに行くので、連れて行く感じだった。
そして、僕の前を通る時に、突然こう言われた。
「私たちの個人が特定されるようなことは書かないでください。」
口調は、怒っていた。
話しかけられたことにびっくりした僕はとっさに「いや、かいてないですよ。」と答えるので精一杯だった。
父と子がトイレに行き、残されたのは僕とお母さん。
普通に気まずい。
あなたたち親子のことなんて、書いたけど、全体の文章においては、ほとんど飾りのような存在だよ、と伝えたかった。
なんなら、疑われたらこの文章を見せればいいと思った。
というかもう見せようか。
いや、中身がキモすぎて恥ずかしい。
見せろと言われるまでは見せないことにした。
それでも、しばらく膝の上でノートを開けっ放しにしといた。だって、何も悪いことしてないから。
その後、お父さんと子供は席に戻ることはなく、お母さんは出る準備をして、まもなく着いた駅で降りた。
と、ここまで読んで、このケースにおいて何が問題だったのかを振り返ると、いくつか疑問点が湧いてこないだろうか?
ぼくは湧いた。疑問が。
疑問① 人のノートを覗くという行為は許されるのか。
疑問② 僕が書いた親子に関する文章(上記参照)はいけないことだったのか。
疑問③ 個人が特定されることを、私的なノートに書くことはいけないことなのか。
先に断っておくと、正直僕は自分が悪かった部分がおおいにあると思っている。隣に座るスーツ姿の男性が、黒い高級ノートに文章を書き殴っていて、その中身に「3人の親子」なんて文字を見たら、こいつは子供のマナーの悪さを書いているに違いないと類推し、趣味の悪いやつだと警戒するのは当然だと思う。
そのうえで、お父さんの「私たちの個人が特定されるようなことは書かないでください。」という言葉がものすごく引っかかったから、あえてここに共有したいと思って書いている。
つまり、特に疑問③が引っかかっている。
この文章を公開する場合に関しては、個人を特定することを書いてはいけない。
それは当然だと思う。プライバシーの問題だから。
僕がスマートフォンのSNSやメモ機能のページを開いていたなら、こう言われるのも分かるが、ノートに手書きで書いていたのにこう言われたという状況が、非常に21世紀的だなと思うのだ。
インターネットが普及して以来、これまで散々ネット掲示板やSNSの不祥事があった世の中だからこそ、ノートに書くというアナログの行為に対しても同様の想像力を働かせることがしごく当然の世界になっているのだ。
40年前は、こんな一言がお父さんから飛び出すことはなかったのではないか。
また、一方で、ぼくがもし、親子3人のことを刻銘に記述していたとして、それはいけないことなのだろうか。
そこに表現の自由がないのだろうか。
例えば小説は、著者のこうした日常の経験が活きている部分が多いのではないだろうか。
もちろん、これは記述の対象となっている方からしたら気持ち悪い行為だろうが。
ここらへん、法律的にどうなんだろう。
そもそも道徳の問題なのか。
なんだか、考える論点がたくさんある面白い体験だった。
最後に、これだけ言わせてください。
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不快な思いをされたのなら、ごめんなさい。
でもあなたたちのことは、全然書いてませんので安心してください。
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文章を書くって、楽しいんだー。
記ろぐ8 〜ブログ書くのってめんどくさい〜
さて、そろそろ限界である。
こんばんは。
ブログ書くのってめんどくさいってことを、とうとうブログに書いている。
心に留めておく段階を超えて、ブログを書くというめんどくささを超えて、今パソコンのキーボードを叩いている。
暇なのだろうか。
いや、決して暇ではない。
暇ではないからこそ、ブログ書くのってめんどくさい、という思考に至るのである。
暇だったら、ブログくらい書くかー、と言っているに違いない。
かといって、忙しいわけじゃない。
こうやって、書き出してしまえば、もう213文字も書いているのだから。213は、2を打つ直前までの文字数であるから、今この時点では、260文字になっている。
そうやって、読み手を混乱させるような文章を書いてしまっている自分がいる。だらっと手を伸ばして、macbookのキーボードに並ぶ白い文字が書かれた黒いプラスチックを叩いている。
きっと、パソコンのない時代においては、書くことはもっとめんどくさいことだったに違いない。それは、小学生時代を思い返せば、みんなが納得する。原稿用紙を埋める作文は、途方もない作業だった。
もっとずっと前のことを考えると、書き言葉は位の高い人しか扱うことができなかったという歴史がある。教育を受けることができる者のみが文字を書くことができる。書くという行為ができることに感謝しないといけないのかもしれない。
昔の人の文字といえば、綺麗で美しく流れるような黒い線が濁った色の和紙に書かれているのを思い浮かべることができる。それでも、江戸時代の文献を見ると、もはや解読することができないくらい、適当な線の集まりにしか見えないものもある。書くという行為は、やはり昔からめんどくさいものだったんだと思うし、それを見て共感できるのはその点だけだ。
卒業論文の調査では、江戸時代の文献を読める地元の図書館の司書さんに大変お世話になったことを思い出す。人が書く文字である限り、人が解読できるのだと思い知った。
さて、そろそろ限界である。
このブログも振り返ってみると、途中で書くのをやめてしまったシリーズというのがちょこちょこある。”道東ろぐ”シリーズもあれから2ヶ月たった今、書き終えられていない。
そうやって、時間は残酷にすぎ、全てを洗い流してくれると、どこかの子供が言っていた気がする。
だから、めんどくさいといって、受け身で日々を過ごすのはやめて、どんな作業にも自分の見方次第で様々な意味付けができるのだから、積極的に生きたいものである。
何かをするのに、理由なんていらないよ。
理由を聞いてくるのは、暇なやつだけだから。
当の本人は、もうやっているのだから、止まることなく走ればいい。
理由を聞いてくるやつは、行動できない自分が不安だから、理由を聞くことで相手を不安にさせたいだけだ。
と、誰に向けたメッセージかよく分からない文章を書いてしまったけど、こうしている間に、1000文字を超える駄文が出来上がってしまった。
今日は日曜日なので、明日に備えてもう寝ましょう。
次回から、ちゃんと書く。
記ろぐ7 〜Facebookとぼく。オワコンなのはどちらだろうか。〜
この一生続くと思われた、Facebook誕生日メッセージ煩悩の終止符は、ふいに打たれた。
久しぶりにブログを更新する。
待っていてくれたみんな、ありがとう。
感謝を伝えるところから始めたい。
感謝といえば、私事であるが、先週誕生日を迎えた。
誕生日といえば、誕生日ケーキと誕生日プレゼント。そして、「誕生日おめでとう!」
と言われるか言われないかのソワソワ感。
このソワソワ感、個人的には苦手で、自分から「誕生日だよ!」と言える仲の人ならばいいけど、もうちょっと遠い仲の人がいつ気づくのかを期待してしまって、落ち着いていられない。
小学校のときには、こんな心配することなかった。それくらい友達とは仲が良かったから。遠慮もなかったからだろうか。
こういうことが起こるのは、大人になってからではないだろうか。深い付き合いでもない人が周りに増えるようになると、この絶妙なソワソワ感が増す。
特に、SNSの誕生日お知らせ風習は、それを加速させる。
SNS上では友達だけど、実際にあってもあまり話さない人というのがやっかいである。
大学受験終了後の春休みに暇すぎてSNSデビューを決めて以来かれこれ6年、この呪縛は永遠と続くように思えた。
SNS上で、果たして何人の人が誕生日おめでとうメッセージをくれるのか。まさにその人の人望を表す一コマのように認識していた。
ただ、人数が多ければいいというものでもなく、友達の総人数Nに対して、メッセージをくれる友達をxとすれば、x/Nをできるだけ最大限にすることが好ましいような、そんな空気が作られていたように思う。
ぼくの実績はというと、このx/N=0.4くらいだ。
この数字を見たところで、それは良いのか悪いのか、判断はつかない。
まあとにかく、そういう風にとらえていたから、誕生日の日にFacebookを開けるのは緊張した。
「頼む。メッセージこーーい!」と願いながら、1日を過ごすことになる。
非常に煩わしい。
誕生日メッセージをもらうためには、まずは与えることが重要である。
Give and take. の原則である。
ぼくは、こんなにも誕生日メッセージの数を気にしている割に、この風習が嫌いだから、大学2年生になった時以来、誕生日メッセージを書くことはやめた。本当に、気持ちを伝えたい人には、みんなの見える前で言う必要はない。直接伝えればいい。それに、SNSがない時代ならそもそもこんなことは起きていなかったのだから、心の中で静かに祈ればいい。
それでも、give and takeを実践している人というのも、やはり存在していて、大学の友達は、友達全員に誕生日メッセージをしていた。親密ともいえない微妙な仲であると、返信する方も気を使う。仲いいふりをすればいいのか、驚いたふりをすればいいのか。びっくりマークはつけるべきか。
この一生続くと思われた、Facebook誕生日メッセージ煩悩の終止符は、ふいに打たれた。
今年、社会人になったぼくにとって、今回の誕生日は今までのそれとは明らかに置かれた状況が違った。
というのも、周りにぼくとFacebookで友人である人がほとんどいないということだ。そして、滅多なことがない限り、お互いの誕生日を知っていることはない。
例年のソワソワ感を感じずに、黙々と仕事をこなすだけ。
今日がどんなにか記念すべき日であるかを知っているのは、自分のほかにいないのだ。
これもこれでものがなしい。
そして、仕事中はスマホを見ないため、facebookを見る機会もなく時間は過ぎていった。
そして、夜、facebookを開いてみると、誕生日メッセージがたったの2件しかない。この結果を受けても、別になんとも思っていない自分がいた。思い返すと、最近facebook上で誰かが誕生日を祝われているのを目にしなくなった。流行はいつの日か途絶える。人間は飽きる生き物だ。
facebookが登場して7年(個人的時間軸)。最初は、タグ付けすることが自分を誇示する証であったのに、今となっては「投稿するほど特別なことではなく、投稿しないくらい僕たちは自然な友達だ」というポジショニングが現実世界の共通理解になってきた気がしている。facebookの時代はもう終わったのかもしれない。
さて、ここで一つ疑問をお持ちの読者がいるだろう。
それを見なかったことにはしない。なぜなら、ぼくもその疑問を感じた一人だからだ。
「facebookがオワコンではなくて、お前がオワコンなのではないか。」
これについては、追求を避けたい。
誕生日くらいは、ハッピーでいよう。
道東ろぐ9 〜被災したという自覚はじわじわと沸き立つ〜
停電でバスが運休になるなんて、一ミリも思っていなかった
昨日が夜行バスでの移動だったので、布団に入った僕はすぐに深い眠りに着いた。
そして翌朝。
朝起きる直前、妙にリアルな夢を見ていた。夢の中の出来事からシームレスに起きる、なんてことはそんなに頻繁に起こることじゃない。
時間を、スマホで確認するとまだ5時。
目覚ましの鳴る1時間も前に起きてしまった。僕を起こすことだけが楽しみの目覚ましには申し訳ない。
夢のせいか、妙に目が冴えている。
せっかく早く起きれたのだから、阿寒湖をたくさん観光しようと思い直して、布団を出る。
部屋のドアの近くで扇風機を回して洗濯物を乾かしていた。
スイッチを入れて寝たはずなのに、何故だか扇風機は止まっていた。
洗濯物を触ると湿っている。
なんで扇風機止まっちゃったの?と思ってスイッチを入れるが動かない。
何度もオンオフを繰り返すが全く動かない。
この扇風機はあまり使われていなくて、久々に回しっぱなしにしたら壊れちゃったのかもしれない。
ということにして、扇風機はもう諦める。
温泉に入って身体を覚ますことにした。
温泉は誰もいない。
貸切状態だ。
シャワーのレバーを上げる。
が、お湯が出ない。
というか、水すら出ない。
ここは所詮バスセンター。
早朝だから、シャワーを止めてしまっているんだろう。
幸いにも浴槽に溜まっている透明な液体は暖かい。温泉は電気がなくても暖かいから素晴らしい。
お湯に浸かる。
身体に染み込む。
足を伸ばして、一息つく。
「温泉、最高〜」
しばらくすると、ひとりのおじさんが入ってくる。
シャワーが出ないことを伝えねば、と思うもまだ今日一度も言葉を発していない僕の喉は少し躊躇する。
おじさんがシャワーのレバーを上げたのを見て、「シャワー、出ないんですよ」と声が出た。
「あー、やっぱり停電か。」と、おじさん。
シャワーが出ない原因が停電だと分かる。ただ、「やっぱり」という言葉が引っかかる。
浴槽のお湯で身体を洗い始めたおじさん。
「嫁さんから北海道の地震が大丈夫かって連絡があったんだよ。俺は揺れに気づかなかったなあ」
ん?
地震?
札幌で大きな地震があって、それで道東地域も停電しているらしいことを知った。
よくよく思い返せば、今朝地震があった気がする。
結構揺れた気がしたけど、眠すぎて一瞬目を覚ますだけですぐに眠りに戻った。
今朝の夢は、そんな経緯からだったのかもしれない。
風呂をあがって、スマホを手に取る。
ツイッターを開くと、トレンドは北海道で埋め尽くされてる。
とんでもない地震であることだけは瞬時に理解できた。
苫小牧にある火力発電所が被災して、北海道全域の電気供給が止まっていた。
朝は明るい。
停電であることを理解したとして、全く困らない時間が朝である。
特に実感もないまま、とりあえず出かける支度をして早朝の阿寒湖に行く。
昨日コンビニで買ったパンを持ち、廊下の冷蔵庫からお茶とヨーグルトを取り出して宿舎を出る。
早朝は、人影も少ない。
明るい空と澄み切った空気だけ、といった感じだ。
だからこそ、停電であるなんて関係ない。
明るい時間の阿寒湖もまた、綺麗だった。
それでも、昨日見た夕暮れの阿寒湖には劣っていた。夕暮れに阿寒湖を見れて良かったと改めて思った。
湖畔のベンチで朝ごはんを食べる。
ヨーグルトは少しぬるい。そうか、停電で冷蔵庫も機能してなかったのか。忘れたように思い出すけど、北海道が停電だなんて未だに信じられない。なんたってまだ朝だからだ。
昨夜とは別の方向に、散歩コースがあるので湖畔に沿って歩いてみる。
↑朝の陽光が降り注ぎ、美しい。
↑突如現れる壁は…。
↑「根こそぎ」倒れた木である。まさに、「根こそぎ」。
↑開けた場所につく。
↑ここは、ボッケ。アイヌ語で「煮え立つ」という意味。地下からボコボコと沸いている。
↑色が薄く変わっているのは、沸き立っている場所の周辺だ。
↑森の中は、今まで訪れたことのあるどんな森とも違う雰囲気だった。
↑奇妙な倒木。
↑倒れた看板。台風のせいだろうか。それとも地震のせいだろうか。
↑森の出口は、神社の裏に通じていた。木を下るリスを発見。
30分ほどの散策を終えると、摩周駅へ向かうバスの時間にはちょうどいい時間になっていた。
むしろギリギリすぎるくらいだ。
小走りでバスセンターへ戻る。
バスセンターの横には、乗る予定のバスが停まっているが、まだ乗客はいない。運転手もいない。もうすぐ出発なのにおかしいな…、と思いながら横目で通り過ぎて部屋へ戻る。
荷物を取って宿泊所の窓口で鍵を返す。
バスに向かおうとすると、バスの窓口に数人の人だかり。
近づいて話を聞くと、バスは運休だという。
停電でバスが運休になるなんて、一ミリも思っていなかったぼく。呆然とするしかなかった。
停電になると、信号が点灯しない。無線が動かない。ガスの供給ができない。
つまり、走れない、ということだ。
これからどうしよう。
空港へのバスは、いくつか運行するという。
青年は、立ち尽くす。この時ばかりは、非常事態の北海道にいることを自覚しないではいられなかった青年。身体中の鼓動が、少しだけ早くなって脈を打った。
道東ろぐ8 〜息を飲む、阿寒湖の美しさに〜
暗い水面と暗い山並み、そこに暗くなる空が溶け込む。
バスに揺られて2時間。
ほとんどの時間は草原の中を快走していたように思う。
遠くの山にかかる雲は、東京で見る雲よりも軽々しく見えた。
↑こんな景色がずっと続く。
なんの変哲も無いバスだが、座席のポケットには、絵本が入っていた。
日本語版と英語版がある。
タイトルは『ふんだりけったりクマ神さま』。
アイヌの伝承物語である。
他にすることもないので、絵本を手に取り、読んでみる。
アイヌ人が自然をどう捉えていたかがとても分かりやすく物語にされている。
あとがきによれば、作者は学生時代に書いたものだった。
バスと絵本、新しい組み合わせだが、この絵本を通じてアイヌ文化を知ってよりこれからの旅路が楽しみになった。
阿寒町に近づくと、学校帰りの高校生がバスに乗ってくる。
こんな場所で育ったら、どんなに豊かな感性を手にするのだろうか。
人が育つ場所は、その人に大きな影響を与えるのだと思う。
東京で育った人間からすると、東京以外で育った人はやっぱりどこか違う感性を持っているような気がする。
それから間も無く、阿寒湖温泉に到着した。
↑バスセンターの1階は、セイコーマート。
バスセンターに到着して、宿泊するのもバスセンター。楽だ。
すぐにチェックインをする。バスセンタ宿泊部は、バス待合所の隣の建物だ。
建物の中に入ると、廊下が奥まで続き、廊下に沿って部屋が並んでいる。
↑寮のようなホテルなのか、ホテルのような寮なのか。
なんとも味気のないホテルだが、部屋はもっと味気ない。
ただ、寝泊まりするだけなら十分快適だ。
↑部屋の様子。6畳くらいのスペースに布団が2組、机とテレビとストーブ。
とりあえずスマホを充電しながら、これからすることを考える。
宿泊部には、温泉が付いているが、どうせなら周辺のホテルの日帰り温泉に入りたい。
が、調べ始めるも温泉はほとんど時間外。
日帰り温泉を受け入れている時間が極端に限定的なのだ。
「入らす気ないだろ!」
てことで、宿泊部の温泉に入ることにした。
まだ誰もいないので貸し切り状態。悪くない。
一風呂あびて、夜ご飯を食べるためまちをあるく。
まっすぐお店に向かおうとしたが、せっかくなので阿寒湖を拝む。
阿寒湖温泉は、阿寒湖に沿って曲線を描く通りに面してホテルやお店が並ぶ。
この通りの1本裏が阿寒湖の畔である。
ホテルの脇を通って裏側へ行くと、映った景色がこれである。
水面に波はなく、夕暮れに静まり返った阿寒湖。
時事刻々と弱まっていく光の中で、それに反して存在感を高めていく。
暗い水面と暗い山並み、そこに暗くなる空が溶け込む。
綺麗過ぎて、長い時間湖を眺めていた。
阿寒湖の畔には散歩道があるので、歩いてみる。
↑散歩道の灯りは、アイヌの伝統的な模様のかたちをしている。
こんな綺麗なのに、観光客は皆ホテルのガラス箱の中に入っている。
唯一ぼく以外に湖畔にいたのは、中国人のおじさん2人。大音量でべちゃくちゃ喋っていた。
散歩道の終点には豪勢なホテルが。
↑豪勢なホテルのロビーには、石像。
↑大通りを歩くと、お土産やさんがたくさん並んでいる。
↑木彫りのお土産がたくさんある。
そうしてぶらぶら歩いていると、アイヌコタンに行き着く。
アイヌコタンは、アイヌ文化のテーマパークのようなものだろうか。アイヌ文化の展示や、演舞の披露なども行っている。
↑アイヌコタンの入り口の門。
↑中は商店街のような構成。広い道の両側にお店が並ぶ。
↑作り物感がすごい。
↑こちらはアイヌの住居か。ただ、昨日の台風の影響なのか、立ち入り禁止。
アイヌ文化の展示が無料だったので、少し見学してみた。アイヌ独特の模様が印象的だった。
と、夕食目的のはずが、阿寒湖に誘われてずいぶん遠いところまで来た。
アイヌコタンからまた元の場所へ戻って、目的地のお店へ。
「炉ばた 浜っ子」
ほっけの焼き物を食べて、大満足。
↑炉ばた浜っ子
お腹も満たし、阿寒湖もみたので宿へ帰る。
寝る前に、明日以降の予定を立てる。
明日の宿を取っていないことを思い出す。
明日の予定は、朝からバスで移動して摩周湖を見て、夜に屈斜路湖に着く。
なかなか決まらなかった予定が決まり、布団に入る。
少し早いくらいだが、明日は早起きして阿寒湖をもう一度みてから摩周湖へ行く。
北海道旅行は、まだまだ半分。
長い夏休み、最高だなんて思っていた。
まさか、翌日、いや、数時間後にあんなことが起こるなんて、この時のぼくはまだしらない。
道東ろぐ7 〜毛綱毅曠のまち、釧路〜
半世紀も経てば、土器とスマートフォンは同じガラスケースの中に展示されていても、まったく不思議じゃないだろう。
バスセンターから歩き出すと、雨はだいぶ弱くなっていた。
日本の端っこまで来てしまったことを、交番を見て知る。
なんと、ロシア語の表記。
気を取り直して、散策開始。
釧路駅周辺には、二つの市場がある。釧路和商市場と、くしろ丹頂市場だ。
前者が、どちらかといえば観光客向けの市場らしいが、まだ開店していなかったのでスルー。
まず向かったのは、フィッシャーマンズワーフMOOだ。
↑明らかに奇妙な建物。
↑積み木みたいだ。
こちらが、毛綱毅曠が設計した建築である。
ぼくは、毛綱毅曠に詳しいわけではない。学部の近代建築史の授業で、日本の近代の建築家の紹介の中で触れられていたのを覚えている。
授業で紹介されたのは毛綱毅曠の代表作である「反住器」。
母親のために設計した住宅で、箱が3重にかぶさって住空間を作っている。
それの何を先生が指摘していたかは覚えていない。ただ、強く印象に残った。
中に入ろうとするも、まだ営業時間じゃないので、おとなしく散策続行。
フィッシャーマンズワーフの隣には、釧路川が流れ、そこに大きな橋がかかっている。
奥に見える丘の上に登ってみようと思う。
↑立派な橋。正面に見えるのは、毛綱毅曠の設計したホテル。
↑河口の方を見る。なんだか知らないけど、蟹工船が思い出される。
↑丘の下についた。花壇は都計になっている。
↑驚くべきは、ラウンドアバウトになっていること。ラウンドアバウトとは、外国で見られる信号機を設置しないで交通を捌く交差点の形式。ロシアが近いからなのか、珍しい光景。
↑出世坂、と呼ばれる坂を登ると丘の上の公園に着く。
↑丘の上からの形式。見事な曇り空。
↑公園。
と、冗長になってきたので、ここからは建築単位でハイライトしていく。
①日本銀行釧路支店
設計:西村好時
竣工年:1952(昭和27)年
形式美を感じる建築。丘の下に経っていて、先ほどの写真にもちらちら映っていた。重厚な銀行建築に惹かれた。銀行機能は移転しており、現在は空き家状態みたいだ。
②釧路センチュリーキャッスルホテル
設計:毛綱毅曠
竣工年:1987年
↑船をイメージして作られた上層部。
↑内部空間も船室が意識されている。こちらは扉のデザイン。
とても綺麗なホテルで泊まってみたいと思った。船を意識したデザインを随所に感じることができた。先日見た「シェイプ・オブ・ウォーター」の雰囲気を感じた。
③フィッシャーマンズワーフMOO
設計:毛綱毅曠
竣工年:1989年
↑どことなく、海底2万マイル感がある。
↑横には、無料の植物園が付いている。
↑玄関の証明のデザイン。
↑大きな倉庫のような内部空間。
↑ゴツゴツしすぎている。
一通り散策し終えて、市場の営業時間になったので駅の方向へ戻った。
↑釧路和商市場
↑勝手丼が名物と聞いて食べてみる。ご飯を買って、具材はお店を回って集めるというのが勝手丼だ。
↑ぼくの勝手丼。うますぎてびっくりぎょうてんはなびろりん。
この勢いで、お昼ご飯を紹介しとくと、、、これだぁ、1、2、3!
↑さんまんま
釧路の料理人が編み出した料理。さんまの蒲焼の下には、しその葉とごはん。美味美味。
そして、最後に釧路市立博物館へ。
↑これは博物館ではない。釧路市立幣舞中学校だ。毛綱毅曠設計。
↑こちらが博物館。毛綱毅曠設計。
釧路についての歴史や自然についての展示。非常にわかりやすく、ボリュームもたくさん。
これを見て、釧路湿原に行かないわけにはいかないと思い、走って釧路湿原へ向かった。
↑奇跡のショットがとれた。手前に写るのは、そう、丹頂鶴!
釧路の青空とどこまでも続く大草原。
そこに白く輝く鶴。
走ってきた甲斐があった。
釧路万歳。
なわけがない。
全部展示だ。
でも本物と見紛う背景の絵と、鶴の像。
展示クオリティすごいので、おすすめ。
土器を展示している部屋は無料で見ることができる。
↑よーく見ると、土器の間に土器じゃないものが…。
↑温度、湿度計だった。
半世紀も経てば、土器とスマートフォンは同じガラスケースの中に展示されていても、まったく不思議じゃないだろう。なんて思う。
これで、だいたい釧路は見れた。
それでも、まだ時間があるので、フィッシャーマンズワーフMOOで暇をつぶす。
そして、やっと晴れてきた。
遅れてやってきた台風一過だ。
↑雲が丹頂鶴のよう。
↑急に、いい天気。
ぼーっとして過ごして、時間になったので、駅へと歩く。
最後に駅だけ紹介しておきたい。
個人的に釧路駅、かなり好き。
↑駅ナカに古本屋。本は安く、買取も行っている。
↑金券ショップ。やってなかったけど、うさんくささがいい。
↑昭和館満載のなつかし感。だれがみてもなつかしいと思わず口にしそう。
↑コッペパンの種類が豊富なパン屋さん。
↑買ってしまった。ポテトサラダのコッペパン。
そして、そして、やっとこさバスの時間。
バスに乗る前に、7日間乗り放題のフリーパスポートを購入した(11000円)。
↑こちらのバスに乗って、出発。
青年は、とうとう、一つ目の湖、阿寒湖に向かう。
これがこの旅での最初で最後の湖になるとは、この時まったく想像していなかったのである。