インドろぐ11 〜嘔吐と下痢と高熱と、決死の夜行列車〜
いつも凄まじいスピードで進む時間も、この時ばかりはゆっくり進んだ。
出発してすぐに横になった僕は数分も経たないうちに眠りについた。
が、真夜中に目が冷めた。
普段は夜中に目を覚ますことはない。
起きた時に3つの点に気付いた。
1点目は、列車がとんでもなく揺れているということ。
2点目は、便意があるということ。
最後に、3点目、吐き気もするということ。
ただ、今すぐ吐きたいという状態ではない。
一度上体をお越し、座る格好になった。
「気持ち悪い…。」
その一言に尽きる。
ゆっくり座っていれば大丈夫かな、と少し様子をみるため、上体を起こす。
時間を確認すると、午前1時ごろである。出発してからまだ1時間しか経っていなかった。
目的地のムガルサラーイ駅には、午前11時半に到着する予定だから、まだ10時間も列車に乗っていないといけない。
なのに、この状況は絶望的だ。
ただ、これはこれから訪れる本当の絶望の始まりにすぎないことを、この時の僕はまだ知らない。
様子を見ていたけど、便意に耐えられなくなってきた。
チャンディーガルからニューデリーに戻る列車内で、ちゃんと大便を済ませたのに、なんで今また便意があるんだろう。
我慢できないので、バックパックからトイレットペーパーを取り出し、小さいバッグに入れた。
盗まれると聞いていたためベッドに上げていた靴を廊下に降ろした。
インドの夜行列車では、2段ベッドの上段へは、はしごを使って廊下から登る形式になっている。
しかし、はしごの1番低いバーは、床から40cmくらいの高さから始まるため、最後だけ床に飛び降りるかたちになる。
小さいバッグを肩からかけて、はしごを降りる。
最後に少しジャンプして床につく。
そのちょっとした衝撃で、僕の堰は崩壊した。
口からものすごい勢いで、嘔吐物が出てきた。
自分でもびっくりしたが、止めることはできない。
さらに信じられないことが起きた。
嘔吐と同時に、下からも汚物が流れ出た。
人体の神秘である。
とりあえず、トイレに行かないと、ここで吐き出し続けたら迷惑だし、非常にまずいことになる。
なぜなら、下段のベッドの利用者は、ベッドの下の空間に荷物を置いているから、僕の嘔吐物の被害を直で受けてしまう。
歩いて、トイレに向かおうとするも、汚物の流出は上からも下からも止まらない。
嘔吐物を手で受け止めながら、なんとかクーラーの効いた車両を出ることができた。
トイレに入る手前に、洗面台がある。
もう手で受け止め切れていない垂れ流し具合だったため、洗面台に向かって存分に吐き出す。
存分に吐き出そうとすると、下から出る汚物の勢いも強まる。
人体の神秘である。
下から出る量が半端ないので、ずっとここにいることはできない。
急いで、トイレに入る。
洋式トイレで良かったと思うことはあっても、和式トイレで良かったと思うことは人生において少ないのではないだろうか。
その稀な1回がインドで訪れた。
和式トイレは、下からも上からも同時に受け止めてくれる。
この時ばかりは、僕にはぴったりだった。
そして、日本のトイレじゃなくて良かった、と思う瞬間もそうそう多くはない。が、この時は違った。
インドのトイレで良かった。
インドのトイレにはウォシュレットがある。
それは、日本のトイレのそれとは違う。
インドのトイレには、水をためる小さな桶と、それ専用の水道が付いている。桶に水をため、その水を利用して左手でお尻を拭くのが一般的だ。トイレットペーパーが付いているトイレは稀なのだ。
この小さな桶と水道があったおかげで、汚れた衣服の水洗いや、トイレの周辺を洗い流すことも可能だった。
一通り、上からも下からも出し終わり、衣服の汚れを取っている時、ぼくの頭の中は不安でいっぱいだった。
その不安とは、自分のベッドからトイレまでの廊下が僕の作ったガンガーと化していること。そのことが誰かに見つかり、被害を受けたバッグの所有者が僕に賠償金などを請求することだ。
とにかく、廊下の証拠を隠滅したい。
まずは、自分のベッドに戻り、昨日着たTシャツをバックパックから漁って取り出した。
こんなことになるのなら、チャンディーガルの宿でわざわざ洗濯なんかしなくてもよかったな、と思いながら、Tシャツをたたんで雑巾にして、廊下を静かに吹き始める。
2往復くらいしただろうか。
だいたい、拭けた。
ここまでに汚くなった衣服をまとめ、袋に入れようとしていると、再びの吐き気と便意がやってくる。
急いでトイレに駆け込む。
1回目よりもひどい吐き気だった。
何度も吐いて、下からも止まらない。
もう、誰も止められない。
さらに最悪な事態は、畳み掛けてやってくるもので、、、。
もう、トイレから離れることはできない。
しばらく、吐き気と格闘していると、重大なミスに気付く。
小さい肩掛けバッグを身に付けていなかったのだ。
パスポートや貴重品が入ったバッグを、席に置いてきてしまった。
ただ、この時の僕は胃に入った菌との戦いで精一杯だった。
命の次に大事なパスポート。
つまり、パスポートは命よりも大事じゃない。
自分に言い聞かせ、できるだけ心配事を消そうとした。
言い聞かせるまでもなく、もう諦めていた。
これで盗られたら、その時はしょうがない。
小さいバッグを持ってきていないということは、トイレットペーパーも持ってきていないということだ。
この時ばかりは、郷に従い、インド式のトイレ術を身を以て体験した。
意外とイケる、と思ったことは覚えている。
約1畳ほどしかないトイレの中で、壁に寄り掛かったり、しゃがんだりして身体を休ませた。
チャンディーガルをバカみたいに歩き回ったせいで、体力はほとんどなくなっていた。
吐くたびに、体力は削られる。
トイレの天井と壁がぶつかる隅っこに固定されたスイッチのない扇風機の風が僕に当たり続けて、僕から体力を奪った。
約1畳の空間では、扇風機の風を避ける場所はほとんどない。
もう、本当に、ここから出ることはできなかった。
足腰も限界だったので、どこかに座って休みたくなった。
狭いトイレの中を見回し、どうにか座れる場所がないかを探す。
基本的に座れる場所なんてないが、洗面台の下に、小さな金属板が壁に立てかけられているのを発見する。
ちょうどお尻一個分が乗る大きさの板を、床に敷き、そこに座った。
体育座りをして、やっと落ち着くことができた。
そのあとも、吐き気と便意が来たら、すぐ横の便器に移動し、それ以外は体育座りで金属板に座った。
狭いトイレの中は、ほとんど独房のようだったけど、その狭さにだんだん居心地が良いと思うようになっていた。
僕は、そのまま目をつむって、眠りについた。
もちろん、熟睡はできない。
時々目を覚まし、スマホでどれくらい時間が経ったのかを確認する。
いつも凄まじいスピードで進む時間も、この時ばかりはゆっくり進んだ。
永遠に朝はやってこないかもしれない。そう思うくらいには時間は進まなかった。
それでも明けない夜はない。
青年は、トイレの中でうずくまり、そのまま朝を迎えるのである。