この一生続くと思われた、Facebook誕生日メッセージ煩悩の終止符は、ふいに打たれた。
久しぶりにブログを更新する。
待っていてくれたみんな、ありがとう。
感謝を伝えるところから始めたい。
感謝といえば、私事であるが、先週誕生日を迎えた。
誕生日といえば、誕生日ケーキと誕生日プレゼント。そして、「誕生日おめでとう!」
と言われるか言われないかのソワソワ感。
このソワソワ感、個人的には苦手で、自分から「誕生日だよ!」と言える仲の人ならばいいけど、もうちょっと遠い仲の人がいつ気づくのかを期待してしまって、落ち着いていられない。
小学校のときには、こんな心配することなかった。それくらい友達とは仲が良かったから。遠慮もなかったからだろうか。
こういうことが起こるのは、大人になってからではないだろうか。深い付き合いでもない人が周りに増えるようになると、この絶妙なソワソワ感が増す。
特に、SNSの誕生日お知らせ風習は、それを加速させる。
SNS上では友達だけど、実際にあってもあまり話さない人というのがやっかいである。
大学受験終了後の春休みに暇すぎてSNSデビューを決めて以来かれこれ6年、この呪縛は永遠と続くように思えた。
SNS上で、果たして何人の人が誕生日おめでとうメッセージをくれるのか。まさにその人の人望を表す一コマのように認識していた。
ただ、人数が多ければいいというものでもなく、友達の総人数Nに対して、メッセージをくれる友達をxとすれば、x/Nをできるだけ最大限にすることが好ましいような、そんな空気が作られていたように思う。
ぼくの実績はというと、このx/N=0.4くらいだ。
この数字を見たところで、それは良いのか悪いのか、判断はつかない。
まあとにかく、そういう風にとらえていたから、誕生日の日にFacebookを開けるのは緊張した。
「頼む。メッセージこーーい!」と願いながら、1日を過ごすことになる。
非常に煩わしい。
誕生日メッセージをもらうためには、まずは与えることが重要である。
Give and take. の原則である。
ぼくは、こんなにも誕生日メッセージの数を気にしている割に、この風習が嫌いだから、大学2年生になった時以来、誕生日メッセージを書くことはやめた。本当に、気持ちを伝えたい人には、みんなの見える前で言う必要はない。直接伝えればいい。それに、SNSがない時代ならそもそもこんなことは起きていなかったのだから、心の中で静かに祈ればいい。
それでも、give and takeを実践している人というのも、やはり存在していて、大学の友達は、友達全員に誕生日メッセージをしていた。親密ともいえない微妙な仲であると、返信する方も気を使う。仲いいふりをすればいいのか、驚いたふりをすればいいのか。びっくりマークはつけるべきか。
この一生続くと思われた、Facebook誕生日メッセージ煩悩の終止符は、ふいに打たれた。
今年、社会人になったぼくにとって、今回の誕生日は今までのそれとは明らかに置かれた状況が違った。
というのも、周りにぼくとFacebookで友人である人がほとんどいないということだ。そして、滅多なことがない限り、お互いの誕生日を知っていることはない。
例年のソワソワ感を感じずに、黙々と仕事をこなすだけ。
今日がどんなにか記念すべき日であるかを知っているのは、自分のほかにいないのだ。
これもこれでものがなしい。
そして、仕事中はスマホを見ないため、facebookを見る機会もなく時間は過ぎていった。
そして、夜、facebookを開いてみると、誕生日メッセージがたったの2件しかない。この結果を受けても、別になんとも思っていない自分がいた。思い返すと、最近facebook上で誰かが誕生日を祝われているのを目にしなくなった。流行はいつの日か途絶える。人間は飽きる生き物だ。
facebookが登場して7年(個人的時間軸)。最初は、タグ付けすることが自分を誇示する証であったのに、今となっては「投稿するほど特別なことではなく、投稿しないくらい僕たちは自然な友達だ」というポジショニングが現実世界の共通理解になってきた気がしている。facebookの時代はもう終わったのかもしれない。
さて、ここで一つ疑問をお持ちの読者がいるだろう。
それを見なかったことにはしない。なぜなら、ぼくもその疑問を感じた一人だからだ。
「facebookがオワコンではなくて、お前がオワコンなのではないか。」
これについては、追求を避けたい。
誕生日くらいは、ハッピーでいよう。