ゆるろぐ -Urbanisme Log-

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都市生活屋のブログ

正解のない世界で正解を追い求めてしまう息苦しさ

「君たちの前には、正解のない問題の方が多いのです。」

 

この世には、2つのものごとがある。

正解のあるものごとと、正解のないものごとの2つだ。

 

前者は、使い古された例示だけど、算数や数学が当てはまる。

算数を習ったことがある人で、1+1の答えが2であることに異論を唱える人は、おそらくいないだろう。

高校生までで解く数学の方程式には、ほとんど答えがある。

「解なし」ですら、時に正解になる。

 

人生の半分は17歳で終わると、親戚のおじさんに教えてもらったことがある。

子供と大人では、時間の感じ方が異なり、歳を取ると体感時間は加速する。

小学2年生の時の夏休みは、永遠かと思えるくらいに最終日がやってこなかったけど、今では週に2日の貴重な休日が始まったかと思えば、月曜日を憂う日曜の夕方がやってくる。

 

 僕たちは、正解がある世界に慣れすぎた。

人生の半分を正解がある世界で過ごす。

算数も理科も社会も英語も、正解があって、正解のある世界での評価は点数で示され、分かりやすい。

別に学校の教科だけではない。正義のヒーローは正解だし、早く走れることが正解だった。

 

人生の後半は、正解のないものごとで溢れている。

「君たちの前には、正解のない問題の方が多いのです。」

正解のある世界で、常に正解に近づくように育ててきた大人は、突如態度を翻して、偉そうに言う。

確かに、多くのものごとに正解などないことは、数年もすれば気付き始めるけど、正解のある世界に慣れすぎて、正解のある世界での生存戦略についつい頼ってしまう自分がいる。

 

最近思うのは、正解のある世界の最適な生存戦略と、正解のない世界の最適な生存戦略は全く違うから、前者で後者の世界を生きていくことには限界がある。

 

 

正解がある問題には、正解への射程が存在する。

正解というのは、中心性がある。

 

▲山としてイメージしてもらってもいいかもしれない

 

真ん中が正解で、その周辺は「惜しい」だ。

だから、真ん中(正解)に近づくためには、自分が今どれくらい離れていて(間違っていて)、どちらの方向に進めばいいかを理解して、努力することになる。

 

▲真ん中に向かうことがすなわち「努力」 

 

一方、正解のない問題には、正解への射程などない。

 

▲正解がないので、図にするとまっさら

 

正解は自分で決めないといけない。

正解にたどり着く手段も自分で考えないといけない。

ここでの最適な生存戦略がどのようなものか、正直僕にも分からない。

 

ただ、やってはいけないことがあることは分かってきた。

それは、正解のある世界での戦略をこっちの世界に当てはめることだ。

 

これがどういうことかと言えば、こういうことだ。

まっさらな世界に、正解らしきものを仮定する。

この仮定した正解を自分で考えついたのなら問題ないが、多くの人はあまり考えもしないし、考えても分からないから正解を安易に仮定してしまう。

安易に仮定するということは、つまり、人のものさしで正解を仮定するということ。

 

正解のない世界で、正解を決めるのは自分なのに、他人の決めた正解に向かって努力をすることになると、苦しい。

正解にたどり着いたら、きっと幸せになると思うが、心の底から幸せにはなれない(自分で決めたものではないから)。

それなのに、正解に近づいている間は、自分は正しい行動をしているかのように錯覚してしまう。そう、正解を目指すことが正解のある世界の最適な生存戦略であることが身体に染み付いているからだ。

 

正解に向かっているはずなのに、その先にあるものは正解じゃないから、どんどん苦しくなる。

 

他人の視点で正解を仮定してしまった人間にとって、この道を外れることはかなりハードルが高い。だから、やめることもできない。

 

 

 

以上が、最近僕が考えた仮説だ。いや、仮説でしかない。

 

文章にして書き出して大事なところが見えてきた。

 

正解を自分で考えることだ。

 

ゴールの設定を自分で考える。そして、そこへ向かって努力する。

 

もちろん、正解を決めることは簡単にできることじゃないから、走りながら考えて修正していくしかない。

 

  

高校時代、僕には交流のあった先輩が片手で数えるほどしかいなかった。そのうちの一人の先輩は東京大学にストレートで受かった。その先輩に、僕が受験勉強を始めた高校3年生の時にメールする機会があった。

「東大に受かるコツを教えてください。」というような文章を送ると、先輩からはこう返ってきた。

「周りに流されたらおしまいだよ。」

 

当時は、この言葉の意味が分からなかったけど、この言葉はことあるごとに思い出されてじわじわと味が滲み出し続けている。

 

正解のない世界に来て10年が経つ。

そろそろ本当の大人になろう。